kikannsyaのメモ

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論理的飛躍の理解にchat-GPTを用いる

今回はchat-GPTがすごいという話。

そんなことはわかっていたつもりだったが、論理的飛躍の補完までも可能であるとは、

 

論文を読んでいたのだが、解釈が難しい論理的飛躍があった。

まあ論文としてそれはどうなのかという話だが、それはそれとして解釈をする必要があった。

それをchat-GPTにどういう行間が考えられるかという質問を投げかけたところ、大いに理解への助けとなった。

 

論理的な関係が不明なパラグラフをコピペして、

「以上のパラグラフは前のパラグラフと論理的につながっていないと考えるがどうか」

とかいう文言を追記したらできた。

自分で論文を書く時等にものすごく使えそうだ

「人間たちの話」の感想

大学の生協の本屋で見つけたので読んでみた。

 

 普段は買ってから結構おいてから読むけど今回はすぐ買って読んだ。というのは立ち読みしてみて、「たのしい超監視社会」が流し見で面白そうだったので買ってからだ。

 全体的に楽しく読めたが特に面白いなあと感じたのは「たのしい超監視社会」と「人間たちの話」、「No Reaction」だった。

 

 特に新鮮な作品は、「No Reaction」だった。
読み終わって10分ぐらいはあとがきとか見ながら平凡な話だったな~と思っていたが、ちょっと時間を置いたら深い話に思えてきた。

「最後の問いかけは読者へ」系で、まあそれだけだったらよくあるんだが、ちょっとした気づきがあってよかった。

 不透明人間に対する透明人間、作品世界に対する読者という関係が最後に提示されてて、読者は作品世界に対して干渉はできないけど、想像は任せる系の終わり方に対して「原因不明の竜巻」を考えてハッピーエンドにしてもよくて、それぐらい適当に物語を楽しんでもいいよみたいなメッセージを感じた。
 短編集だからアイディアメインで終わりの後は想像に任せますというのが多かったので、その終わりの作品としてもよかったと感じる。

 「たのしい超監視社会」は1984年のオマージュでまあ舞台は結構同じ、違うのは監視映像を相互に見れるSNS的な設定があって、現代で1984年を書くならこうなるのかと感心?した。

 まあ現代のSNSの弊害(他人と自分の比較)を見ると楽しめるかについては疑問だが現実でインフルエンサーやYoutuber、Tiktokerが活躍してるのを見ると偽りようのない生活が見れることは楽しそうとも思わないことはない。

 「人間たちの話」はアイデアがやっぱり面白い、明らかな知的生命体でもない限り人類と地球外生命体のファーストコンタクトは学会での議論を通して決まるだろうなというある種の現実感があってよかった。

 あと日本に対する著者の憤りも残念にも同意できる。

 

総じて良かったと思う。機会があればぜひ読んでほしい

書評:彗星を追うヴァンパイア

彗星を追うヴァンパイア

予備ノリのたくみが「ほんタメ」というYouTudeチャンネルでおすすめしてたので、読んでみた。

「ほんタメ」は流行いちいち追うの面倒だけど、いつか読まないとなあと思ってる緩い本読みにお勧め。流行ってしばらくしたときにお勧めしてくれるのでがっつり流行の最先端じゃないから自分のペースで読もうと思ったときに読める。

 

さてこの小説の感想は、

理系にとっての原点を思い出す!

 

ネタばれなしの感想

この小説のメインターゲットは理系、特にかつての大学生

文系が読んでももちろん楽しめるけど、主人公に感情移入が難しいかもしれない

 

主人公は17世紀の理系大学生で科学が大好き。

科学について考えたとき、17世紀って理系なら同意が得られると思うんだけど、夢のある時代だなと思う。まっさらな本にこれから科学とは何かを書いていくぞ!という時代だったと思っている。ニュートン古典力学へとまとめ上げて、解析学を提唱して、ライプニッツが洗練させて、これから科学を作り上げていく時代

現代科学のように細かい系統に分かれないから、この時代の科学者の業績はいろんな分野にまたがってって科学者=自然哲学者というイメージがある。純粋に好きだから突き詰めてたらいろんな分野に貢献してましたというのがうらやましい。

今、科学をしようと思ったら10年ぐらいの学士→修士→博士の過程で、膨大な分野における基礎知識を身に着けてようやくスタートラインに立つって感じで、しかも専門分野は全体からすればごくごく小さい範囲に限られる。科学をするために最低限度の知識というものがある。そして、ずいぶんと高いところまで積み上げられているからその上にあたらしい知識を積もうと思うと超大変。

でも逆にニュートンライプニッツも現代をうらやましく思うだろう。大学で問題を記述して解答するための道具、数学とか物理学とか統計学とか、がすべて与えられるのだから。ニュートンライプニッツ解析学を一から組み立てる必要なく、その上に物理学だったり、生物学だったりを研究できただろう。そういう道具を自分で作ることにあこがれるけど、まあたいていの人にそういう才能はないからあきらめも大事。

科学の重要な性質って時間ともに着実に積み上げられていくこと、この本を楽しむ資格っていうのは別に理系であることではなくて、個人ではとても構成しえないほど膨大な過去から連綿と紡がれてた知識体系に対する感動の体験だと思った。人類が受け継いできた科学に思いをはせれば、この小説のラストにリアリティを感じると思う。

王政から民主主義へ行きつくには、王権神授説から始まり、社会契約説への発展が必要だったし、あまり詳しくないから具体例は挙げられないけど人文系の学問にもたぶん長年の積み重ねというものは存在すると思う。(というか、歴史そのものが積み重ね?)

この小説は、各々の中にある人類全体が積み重ねてきた知識に初めて触れたときの感動を思わせるから懐かしい。その積み重ねに自分も貢献したいと考えたことを思い出させてくれた。

 

 

 

 

米澤穂信「ボトルネック」

ボトルネック」はだいぶ前に読んで心地のいい嫌な気持ちになって満足したのだが、今になって改めて感想を書こうかなという気持ちになったので投稿。

 

 

あらすじ

主人公嵯峨野リョウは恋人だった諏訪ノゾミがなくなった東尋坊を訪れて、落ちたことをきっかけに、存在しないハズの姉サキがいる世界へと迷い込んでしまう。

リョウとサキは元の世界に戻るために方法を探すために行動を共にして、元の世界とその世界との大小様々な違いを発見していくことになる。実家の家具の配置、両親の夫婦仲、兄の生死。最たるものはサキとリョウの存在だった。

両者の世界の比較を通して、リョウは自分の存在理由について悩むことになる。自分が自分であることに罪悪を感じるようになる。

 

感想

青春小説っていうのは思春期の少年少女たちが現実の問題(多くは人間関係、恋愛)に対して真摯に悩んで解決していくという枠組みで語られると思っている。もっと大枠で考えれば、自分に対して絶望してそれを乗り越えようとする物語である。そういう意味でこの「ボトルネック」も青春小説だと思っている。

 

しかしこの小説が恐ろしいのは自分自身の存在自体に絶望をさせることだと思う。リョウとサキ、両者の世界の違いは両者の存在の有無がかかわっていることが小説全体で説明される。

 

明るく主体的な性格のサキの存在が、元のリョウの世界での不幸を解決していたのだ。それに対して、主人公は何事に対しても斜に構えて受け身であるために何も為せない。

 

徹底的な比較によって、サキに対するリョウの存在価値が対比される。その結果、リョウはサキを羨み、そうではない自分を嫌悪する。

 

正直、この「ボトルネック」の言い表せない感動は小説全体を通して積み重ねられるリョウの絶望にあるので、どれだけ言葉を尽くしても伝えきれないので実際に読んでほしいなと思う。

 

これに感動するのはやっぱり親近感があるからだろう。

 

漫画や小説の中で成功していく主人公たちは自己存在について絶望したりはしない。自分であれば目の前の問題を解決できると信じている。悩むのはその問題の解決策を持っていないことであり、それさえあればどうにかなると思っている。

 

しかし私たちが経験であろう最も大きな絶望はそもそも自分では解決しえない事象やどれほど努力しようともかなわない相手によってもたらされる。解決しえない自分に対して存在意義を問わなければならなくなる。

 

たぶん多くの人が経験したであろう、もしくはこれから経験するであろう最大の絶望、自己否定がまあこれほど明確な輪郭をもって感じられる作品はあまり見ないのでその点で傑作だと思っている。

 

この絶望をどうやって扱えばいいのか。

 

平行世界での体験を通して、生きる限りもう人生から逃げられない。サキのように一生懸命生きるか、そのようには生きられないと諦めて死ぬかの選択。自己否定を抱えながら生きていくのは苦痛でしかない。だが、死ぬことも人生を捨て置いた否定したい自分の永遠の肯定となる。

 

そこで聞く『イチョウを思い出して』。ノゾミが妬むのはリョウが生を拒むこと。生まれてからずっと向き合ってこなかった人生に向き合うには、もう遅い。ほんとに?

 

「リョウへ。恥をかかせるだけなら、二度と帰ってこなくて構いません」

届いたメールによって決断することになる。

 

リョウの母のメールは、ノゾミが失った母親という存在を思い出す。関係は決定的に壊れていてもまだ失っていない。やり直せるだろうか。やってみるしかない、情けない自分でも試すことだけはできる。

 

絶望を受け入れて自分自身の潔白を諦めるが、今日一生懸命いければ明日はよくなるかもしれない。昏くとも明日を照らせる。うっすら笑ったのは自分らしくないと自嘲したからかもしれない。

「卒論・修論研究の攻略本」のすすめ

卒論・修論研究の攻略本を読み終わったので書評を書く。

一言でまとめるなら、まさしく卒論や修論のやり方を書いた「攻略本」である。

(タイトル言っただけw)

 

知的労働、いわゆるコンサルなんかに興味を持ったときに大体おすすめされる書籍が二つある。一つは「イシューから始めよ」、もう一つが「仮説思考」である。自分もどちらも読んだが、まあ言ってることは「仮説検証」を行えということである。

まずざっと対象を俯瞰して、それを元に「○○は△△ではないか」といった仮説を立てる。次にこの仮説を検証するために必要なデータは何であろうかと考えて、リスト化し、実際に生データを集める。最後に集めた生データを仮説を検証できる形で可視化して、仮説が肯定されるのか、否定されるのか、否定されるとするならどこがダメなのかを考える。

コンサルタントは上のような仮説検証サイクルを素早く、正確に実行することが求められる。これは科学研究にも同様に必要なことであると考えて、それら本を読んで勉強してみたがいまいちしっくりとこなかった。それが「攻略本」を読んだらしっくりときた。

当り前であるが、研究において「仮説検証」はほんの一部分でしかないということである。ただ、何もわからず研究の世界に漕ぎ出した初心者にとってこの当たり前が分からない。もちろん、卒業研究で最初に決めるのは「研究テーマ」を決めることである。先生からの指導で、大体2週間でできそうなことと言われたが何を決めればよいのかが分からなかった。

この本には「研究テーマ」を決めることとは何かを詳しく書かれている。「研究テーマ」を決めるとは研究対象の現状を把握して、理想を決めて、課題を明らかにして、問題を解決するという一連の研究プロセスを具体的かつ論理的に決めることを指す。

ずっと手探りで、あやふやなまま進めてきたので卒論もあやふやなまま終わったので、修論ではそれらをはっきりと決めて研究しなければならないなと思えた。

あとは紙幅は少なかったが、研究の進捗・スケジュール管理に関して具体的なアイデアがもらえたのは良かったと思う。進捗管理は難しい、毎日やろうと思っても課題ややらないといけない勉強、私生活が邪魔をしてくる。そういう中でどういうふうに最終的なデットラインに間に合わせるのか。細かく自分で、いついつまでにこれをすると順序だてて決めていくしかない。自分が決めた時間制限の達成度合いで、このままでも間に合うのか間に合わないのかを考える。あまり、スケジュール管理について考えていなかったので役に立ちそうと思った。

あとは「仮説検証」の研究の中での役割とか教員とか先輩に手伝ってもらうための報連相の仕方とか、結論と考察の違いとそれらの書き方なんかを学べる。

これ一冊で研究のすべてがわかるとはいかないだろうけど、入り口に立って右往左往するなんてことはなくなると思う。

情報:インテリジェンスとインフォメーション

時間ないから適当です。

 前からこのテーマ書こうと思ってたけど、最近時間なくてかけてなかった。

 「戦略的インテリジェンス入門」(上田篤盛,2016)の始めだけまとめる。

 

言語は区別のシステム

 日本語で「情報」というと、英語で言う「intelligence」と「information」の二つの意味である。日本人は「情報」に関してこの二つを区別していない。

 孫引きになるけど、広辞苑(1998)における「情報」は次の意味らしい。

①あることがらについての知らせ、②判断を下したり行動を起こしたりするために必要な種々の媒体を介しての知識

 ①が「information」で、②が「intelligence」である。

 言葉で区別されないというのは日本語を使う日本人にとっては①と②が混同されているということである。しかしこれらを明確に区別しておかないと、意思決定が非効率的になってしまう。

総理大臣が情報を分析するだろうか?

 たとえば、対中政策を決めるにあたって中国の「情報」が欲しいと言って、たぶん内閣官房内閣情調査室とか外務省国際情報統括官組織とか法務省公安調査庁防衛省情報本部なんかに命令すると思う(一応日本は多くの情報組織を持っている。現在の岸田首相の外交音痴を見ていると適切に機能はしていなさそうだけど)。

 ではここで命令した組織から「information」が送られてきたらどうだろう?「information」は良く言われるような一次情報のことである。中国のGDPや人口はいくらでと言った情報である。受け取った側が思うのは「ほう、なるほどそうなのか」である。

 「information」を受け取ってしまった首相はこの一次情報から決断しなくてはならないが、専門的な情報分析訓練を受けてないのにできるわけがないよね。やっても、でたらめな行動の根拠になるだけである。したがって、渡されてもで、となる。首相が必要とするのは意思決定に必要とされる情報「intelligence」である。

 たとえば、「最近、中国は南、東シナ海あたりで海軍の活動が活発である。台湾での軍事行動の可能性が高い。アメリカとの関係性など我が国を取り巻く環境を考慮したうえで以下の選択肢が考えられる。1・・・・・・」とかがいい例だろう。

 基本的には「intelligence」は生の情報「information」を処理して、「意思決定者を取り巻く環境」を整理して、その立場で「information」を解釈し、選択肢などを示す。ここまで来て「intelligence」となる。「information」は「最近、中国は南、東シナ海あたりで海軍の活動が活発である。」、「アメリカとの関係性」などを考慮に入れたうえで、「日本が取りうる行動の選択肢」を示すのである。

 そして意思決定者である内閣総理大臣はいくつかある「intelligence」の中から吟味して一つ、または複数の選択肢を実行するのである。

まとめ

 日本の指導者はしばしば「intelligence」ではなく「information」をもとめがちである。部下の職責を信用できないが為に、自分で一次情報に触れて分析したくなるからだろうか(菅直人元首相なんかがいい例かもしれない。原発事故のときなまじ詳しいが為に一次情報をみづから手に入れて、意思決定をしようとしてしまった。高頻度での福島第一原発訪問はそのためかも。あくまで推測です)?

 しかしそれでは何のために専門性を持った部下に情報を収集させるのだろうか?複数の信頼できる優秀な部下に「intelligence」を提供させて、その中から意思決定者がよいと思うものを選んだ方が効率がよいと思う。その信頼できる部下というものがいないのかもしれないが。

 言いたかったのは、意思決定者は自分が受け取った「情報」が「information」なのか「intelligence」なのかを明確に理解して、使い方が違うということをわかっていなければならないとうこと。そうじゃないと視野の狭い稚拙な判断をしたりしてしまう。

 で、この意思決定者というのは別にお偉いさんだけじゃなくて自分たち一般市民もである。選挙とか、自分の言説とか決めることは意思決定で多くの場合ニュースが情報源になる。しかしニュースでは「intelligence」と「information」は混同される。それが、テレビ局や新聞社独自の意見なのか、はたまた事実なのかを見抜かなければ、馬鹿な選択をしてしまうかもしれない。

 皆も「intelligence」と「information」を使い分けてかっこつけよう!

 

 

 

科学哲学まとめ

本記事ではNHK BOOKS「科学哲学の冒険」を参考にして自分の中の科学観についてまとめます。

 

なぜ、科学哲学に興味をもったのか?

 私は今理系の大学4年ですが、恥ずかしながら今まで科学というパラダイム自体に向き合ったことはなかったです。

 しかし学部の卒業研究を始めるにあたって科学とは何だろうかと考えるようになりました。まあこれまでの理系教育で多少は科学的な思考は教育されてきたので、演繹、帰納アブダクション、アナロジーとか基本的な論理はまあ学んだことはないにせよ触れてきました。ただ、それらがあいまいだと研究を始めるには足元が不安定だなと感じました。そのとき、科学とは何だろうか、どういう枠組みを科学というのだろうかと初めて考えたわけです。そんなときに本屋で出会ったのが「科学哲学の冒険~サイエンスの目的と方法をさぐる~」です。

 著者は戸田山和久さんで、「論理学をつくる」の著者でもあります。読んでませんが、数理論理学(挫折したので読まないと)に興味を持ったときに名前を見たことがあるなあという認識で、面白そうだから読んでみるかと思い手に取りました。

 さて内容はというとちょっと読みにくいですね。センセイとリカ、テツオの三人の会話によって説明していくんですがまあ、考えが対立するわけです。哲学者同士の歴史的な議論を学べるというのは良い点かもしれませんが、まあ意見と意見がどのように衝突しているかを理解しないといけないので普通の文章より認知力を使うかなと思います。

 ただ、センセイがところどころまとめてくれるのでわからないというほどではないです。まあ理解しにくかったのは院試勉強中でさっと読んだからというのもあるかもしれないです。

科学哲学とは?

 本題に入ります。まずは科学哲学が何を目的とするのか、本を参考にまとめます。

著者は以下のように述べています。

科学というものは世界を理解しようという試みだ。そして実際にせかいを理解できる試みのように私は思える。しかし、その科学という試みじたい、世界の中で生じている。(中略)。「世界の中に<世界を理解する>というたぐいまれな活動(つまり科学)が生じているということ」そのものを理解しなければならないだろう。つまり、科学はなぜ可能なのか、科学は他の活動とどこが違うのか、どこがどう違うから世界を理解することができるのか?こうした謎を解くのが科学哲学の第一課題だと思う。

 ふーんと思う。科学って何かということを考えるのが科学哲学という営みらしい。

 つまり、研究するにあたって自分の足元に不安を覚えた自分が勉強するにはぴったりだったというわけだ。

著者の立場

  1. 自然主義
  2. 科学的実在論

 「科学的方法論」を科学とは切り離したところで哲学独自で整備しておこうとする考え方を「第一哲学」というらしい。

世界についてなにを信じるべきかということを、現にどのようにして信じるようになっているかと独立に研究出来ると言っているわけだよね。

 すこし理解が難しいが、ここでは人の認識と世界自体の仕組みが分けて考えられると主張している程度に理解した。

 それに対して「自然主義」とは「第一哲学」を捨てて、科学の基礎付けではなく科学自身による科学の理解を進めましょうという立場である。科学自体の性質は?人間のどのような認知システムが影響して科学を形作ったのか?などの問いを科学的知識とか方法を使って解明しようとすることと言っている。

 

 一方で、著者は「科学的実在論」を推している。

だいたい次の二つのことを主張する立場。一つは、科学が理解しようとしている世界は、目に見えないミクロなものも含めて、科学とは別にあらかじめ存在しているということ。つまり科学理論は、目に見えない電子とかクオークでも「ある」って言うよね。そういうミクロなものでも、人間が科学を始める前からちゃんとあって、それが科学によって発見されてきたんだということ。それから、もう一つは、科学は科学と独立に存在している世界の本性についてだんだん詳しく分かってきているんだということ。

 上のことを主張したいのが「科学的実在論」の立場である。人間の直感といってもいい。普通の人が科学に思うことだろう。しかしながら、この立場は科学哲学的には厳しいらしい。

まあ作者の考えは置いておいて

興味があるのは科学の方法論である。まあ、時間が無いので、適当に説明。

科学の論理は究極的には演繹と帰納である。

  • 演繹

  「正しい」に強く「新しい」に弱い。

  数学なんかは基本的に演繹だけで論理展開される。

  定義や公理から出発して定理を証明することを繰り返すなどだと思う。

  AならばB

  「新しい」に強く「正しい」に弱い

  仮説を立てる

  枚数的帰納法数学的帰納法)が代表的。卵を1ずつ取り出した、すべて腐ってい  た。次に取り出す卵も腐っているだろう(仮説:ほんとかわからない)。

  他にもアブダクションやアナロジーがある。

  アブダクションはHであることを仮定するとき、現実にAであることをHを用いて上手く表せたら、きっとHが正しい(仮説)と推論することである。

  アナロジーはAがPであるとき、BとAの類似性に注目してBもPである(仮説)と推論することである。

  で、帰納は必ずしも正しいというわけではない。前提のすべてが真であろうと、導かれる仮説は正しいとは限らない。

 

これらを組み合わせて、科学で一般に使われる(むしろ科学的方法そのもの?)仮説演繹法が考えられる。

手持ちのデータから帰納的に仮説を立てる。この仮説は真とは限らない。したがって、演繹を用いてこの仮説が真であることを証明する。

仮説から演繹的に導かれる予言を導出する。この予言は科学的に検証可能である必要がある。この予言の真偽を実験や観察によって示す。

すると、仮説から演繹によって導かれた予言が正しいということになる。つまり、「仮説」ならば「予言」が正しく、「予言」も正しいということになる。

しかし、ここで「仮説」が正しいとは限らず、一種の帰納である。

 

そうして、科学にはどこまで行っても必ず結論が正しいとは限らない帰納と付き合っていかなければならない。帰納を正当化する必要がある。

科学における帰納の正当化:統計学

ここからは、独自の論である。まあ、戯言と思ってあまり真面目に取らないでほしい。

必ずしも正しいとは限らない帰納を元に科学は成り立っているのである。したがって、この帰納に正当性を持たせなればならない。その方法論が、現在においては統計学なのだと思う(本には書いてなかったが)。

集められたデータから、帰納的に仮説を取り出す。ここで統計学が用いられる。統計モデリングや、回帰分析といった手法になるだろうか。

取り出した仮説から予言を導出する。予言を正しいと証明するのにも統計学が用いられる。予言を数理モデル化することによって、実験から予言の妥当性を検証することができる。これも一種の帰納だ。

これらのことから、科学の根本に統計学が存在していて、科学者は皆統計に頼らざる負えないのかなあと思う。しかしながら、果たして統計によって帰納を正当化していいのかなということに疑問は疑問に残る。

これが科学に覚える根本的な不安の正体だと結論した。

 

でこれを確かめるには統計を勉強するしかないなと感じた次第である。

統計学にも大きな問題があって、主観確率客観確率についてである。

まあ、最も有名なのはモンティホール問題だ。

客観確率を考える従来の頻度主義なら真の確率は変化しないはずである。

しかし、ベイズ主義、主観確率であれば選択は変えた方がいい。この差をどのようにとらえるのか?ということを理解する必要があるかもしれない。

でこういう主義の問題を飛び越えて数理統計をやろうという勢力もいる。現代数理統計によって、妥当なモデリングとか指標とか考えようということらしい。

 

まあわかったのは科学をするには統計は必須らしいということ。統計をいまいち理解しきれていなかったことだと分かった。ここら辺をしっかり勉強しようと思う。