本記事ではNHK BOOKS「科学哲学の冒険」を参考にして自分の中の科学観についてまとめます。
なぜ、科学哲学に興味をもったのか?
私は今理系の大学4年ですが、恥ずかしながら今まで科学というパラダイム自体に向き合ったことはなかったです。
しかし学部の卒業研究を始めるにあたって科学とは何だろうかと考えるようになりました。まあこれまでの理系教育で多少は科学的な思考は教育されてきたので、演繹、帰納、アブダクション、アナロジーとか基本的な論理はまあ学んだことはないにせよ触れてきました。ただ、それらがあいまいだと研究を始めるには足元が不安定だなと感じました。そのとき、科学とは何だろうか、どういう枠組みを科学というのだろうかと初めて考えたわけです。そんなときに本屋で出会ったのが「科学哲学の冒険~サイエンスの目的と方法をさぐる~」です。
著者は戸田山和久さんで、「論理学をつくる」の著者でもあります。読んでませんが、数理論理学(挫折したので読まないと)に興味を持ったときに名前を見たことがあるなあという認識で、面白そうだから読んでみるかと思い手に取りました。
さて内容はというとちょっと読みにくいですね。センセイとリカ、テツオの三人の会話によって説明していくんですがまあ、考えが対立するわけです。哲学者同士の歴史的な議論を学べるというのは良い点かもしれませんが、まあ意見と意見がどのように衝突しているかを理解しないといけないので普通の文章より認知力を使うかなと思います。
ただ、センセイがところどころまとめてくれるのでわからないというほどではないです。まあ理解しにくかったのは院試勉強中でさっと読んだからというのもあるかもしれないです。
科学哲学とは?
本題に入ります。まずは科学哲学が何を目的とするのか、本を参考にまとめます。
著者は以下のように述べています。
科学というものは世界を理解しようという試みだ。そして実際にせかいを理解できる試みのように私は思える。しかし、その科学という試みじたい、世界の中で生じている。(中略)。「世界の中に<世界を理解する>というたぐいまれな活動(つまり科学)が生じているということ」そのものを理解しなければならないだろう。つまり、科学はなぜ可能なのか、科学は他の活動とどこが違うのか、どこがどう違うから世界を理解することができるのか?こうした謎を解くのが科学哲学の第一課題だと思う。
ふーんと思う。科学って何かということを考えるのが科学哲学という営みらしい。
つまり、研究するにあたって自分の足元に不安を覚えた自分が勉強するにはぴったりだったというわけだ。
著者の立場
- 自然主義
- 科学的実在論
「科学的方法論」を科学とは切り離したところで哲学独自で整備しておこうとする考え方を「第一哲学」というらしい。
世界についてなにを信じるべきかということを、現にどのようにして信じるようになっているかと独立に研究出来ると言っているわけだよね。
すこし理解が難しいが、ここでは人の認識と世界自体の仕組みが分けて考えられると主張している程度に理解した。
それに対して「自然主義」とは「第一哲学」を捨てて、科学の基礎付けではなく科学自身による科学の理解を進めましょうという立場である。科学自体の性質は?人間のどのような認知システムが影響して科学を形作ったのか?などの問いを科学的知識とか方法を使って解明しようとすることと言っている。
一方で、著者は「科学的実在論」を推している。
だいたい次の二つのことを主張する立場。一つは、科学が理解しようとしている世界は、目に見えないミクロなものも含めて、科学とは別にあらかじめ存在しているということ。つまり科学理論は、目に見えない電子とかクオークでも「ある」って言うよね。そういうミクロなものでも、人間が科学を始める前からちゃんとあって、それが科学によって発見されてきたんだということ。それから、もう一つは、科学は科学と独立に存在している世界の本性についてだんだん詳しく分かってきているんだということ。
上のことを主張したいのが「科学的実在論」の立場である。人間の直感といってもいい。普通の人が科学に思うことだろう。しかしながら、この立場は科学哲学的には厳しいらしい。
まあ作者の考えは置いておいて
興味があるのは科学の方法論である。まあ、時間が無いので、適当に説明。
科学の論理は究極的には演繹と帰納である。
「正しい」に強く「新しい」に弱い。
数学なんかは基本的に演繹だけで論理展開される。
定義や公理から出発して定理を証明することを繰り返すなどだと思う。
AならばB
「新しい」に強く「正しい」に弱い
仮説を立てる
枚数的帰納法(数学的帰納法)が代表的。卵を1ずつ取り出した、すべて腐ってい た。次に取り出す卵も腐っているだろう(仮説:ほんとかわからない)。
他にもアブダクションやアナロジーがある。
アブダクションはHであることを仮定するとき、現実にAであることをHを用いて上手く表せたら、きっとHが正しい(仮説)と推論することである。
アナロジーはAがPであるとき、BとAの類似性に注目してBもPである(仮説)と推論することである。
で、帰納は必ずしも正しいというわけではない。前提のすべてが真であろうと、導かれる仮説は正しいとは限らない。
これらを組み合わせて、科学で一般に使われる(むしろ科学的方法そのもの?)仮説演繹法が考えられる。
手持ちのデータから帰納的に仮説を立てる。この仮説は真とは限らない。したがって、演繹を用いてこの仮説が真であることを証明する。
仮説から演繹的に導かれる予言を導出する。この予言は科学的に検証可能である必要がある。この予言の真偽を実験や観察によって示す。
すると、仮説から演繹によって導かれた予言が正しいということになる。つまり、「仮説」ならば「予言」が正しく、「予言」も正しいということになる。
しかし、ここで「仮説」が正しいとは限らず、一種の帰納である。
そうして、科学にはどこまで行っても必ず結論が正しいとは限らない帰納と付き合っていかなければならない。帰納を正当化する必要がある。
科学における帰納の正当化:統計学
ここからは、独自の論である。まあ、戯言と思ってあまり真面目に取らないでほしい。
必ずしも正しいとは限らない帰納を元に科学は成り立っているのである。したがって、この帰納に正当性を持たせなればならない。その方法論が、現在においては統計学なのだと思う(本には書いてなかったが)。
集められたデータから、帰納的に仮説を取り出す。ここで統計学が用いられる。統計モデリングや、回帰分析といった手法になるだろうか。
取り出した仮説から予言を導出する。予言を正しいと証明するのにも統計学が用いられる。予言を数理モデル化することによって、実験から予言の妥当性を検証することができる。これも一種の帰納だ。
これらのことから、科学の根本に統計学が存在していて、科学者は皆統計に頼らざる負えないのかなあと思う。しかしながら、果たして統計によって帰納を正当化していいのかなということに疑問は疑問に残る。
これが科学に覚える根本的な不安の正体だと結論した。
でこれを確かめるには統計を勉強するしかないなと感じた次第である。
で統計学にも大きな問題があって、主観確率と客観確率についてである。
まあ、最も有名なのはモンティホール問題だ。
客観確率を考える従来の頻度主義なら真の確率は変化しないはずである。
しかし、ベイズ主義、主観確率であれば選択は変えた方がいい。この差をどのようにとらえるのか?ということを理解する必要があるかもしれない。
でこういう主義の問題を飛び越えて数理統計をやろうという勢力もいる。現代数理統計によって、妥当なモデリングとか指標とか考えようということらしい。
まあわかったのは科学をするには統計は必須らしいということ。統計をいまいち理解しきれていなかったことだと分かった。ここら辺をしっかり勉強しようと思う。